「健康経営」とは? 基本情報と実践に向けたファーストステップのあり方
健康経営に取り組む企業は年々、増加傾向にある。経済産業省が実施する、優秀な取り組みを表彰する「健康経営優良法人認定」は、2024年度に大規模法人部門で2.988法人、中小規模法人部門で16,733法人が認定を受けている(2024年3月11日時点)。いま、なぜ健康経営が注目され、導入企業が増えているのか。その基礎情報と導入にあたって取り組むべきことについて、健康経営研究における第一人者である新井卓二氏に話を聞いた。
構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人
健康経営の普及・推進のはじまり
——新井先生は健康経営の研究者として大学で教鞭をとるだけでなく、アクセラレーターとして経済産業省との連携活動、企業向けのコンサルティングなど様々なご活躍をされています。健康経営領域に携わるようになったきっかけをお聞かせください。
新井卓二:もともとわたしはとある大企業の人事として、採用や新人研修を担当していました。いわゆる就職氷河期にあった2000年代当時の労働環境は厳しい傾向にありましたが、とりわけわたしの勤めていた会社の離職率は高く、優秀な人材を採用しても半年くらいで辞めてしまい、3年間で6割が離職するという環境でした。新人教育は不十分で、「勝手に成長して実績を出す人間だけ残ればいい」という考え方でしたし、連日の深夜残業もあたりまえだったのです。
そんな環境においても成果を挙げて働き続けるのは実直な人が多く、性格が真面目だからこそ、いずれメンタルを崩してしまいます。約2,000人いる営業職では、年間約100人もうつ病を訴えて就労不可になった年もあったほどです。単純計算すれば20年で営業職全員が働けなくなりますから、いくら業績がよくて給与が高くても、会社に未来などありません。この人事としての経験が、健康経営研究の道に進んだ背景のひとつです。
また、その頃のわたしは、よく仕事を抜けて自費でマッサージを受けに行っていたのですが、厳しい環境で心身のバランスを保つためのいい習慣になっていました。その当時、Google社が福利厚生として企業内マッサージルームを開設し、心身のストレス軽減と生産性向上に取り組むなど、IT企業を中心とした労働環境改善の動きもあったのです。
そこで、心身の不調に苦しむビジネスパーソンを救うアプローチになると思い、初めて人事を経験した会社を退職後、2010年に法人向けリラクゼーションルーム受託会社を立ち上げました。しかし、上場企業1,000社以上に営業をかけても、ほとんど理解を得られませんでした。就業時間のマッサージ行為等に対し、現場に近い人事・総務部門の理解は得られるのですが、経営層に「サボりを助長してどうするのだ」と否定されてしまうのです。あらためて社会全体の労働偏重の意識を変えていく必要を感じました。
——いまでこそ、従業員の福利厚生や勤務中のリラックスタイムはあたりまえになっていますが、2010年代前半はまだ「脇目も振らずに働くこと」が求められる、厳しい労働観の時代でしたよね。新井先生が学術研究の世界に入られたのも、この頃でしょうか?
新井卓二:会社経営の傍ら、2015年にヘルスケアと経営学の非常勤講師として、大学教育に携わる機会を得たのです。幸いなことに、ちょうどこの時期に経済産業省が健康経営を産官学連携での普及推進を開始し、わたしのこれまでの経験もあって、そのアクセラレータプログラムに参加することができたというわけです。
——健康経営という概念は、いつ、どのようにして出てきたものなのでしょうか?
新井卓二:もともとはアメリカが発端です。1990年代に入り、ひとり1台のパソコンを使用する時代になると、テクノストレスによる心身の失調があきらかになってきたのです。そこで、「ヘルシーカンパニー」という概念が経営心理学者であるロバート・H・ローゼン氏によって提唱されました。それから「健康な従業員こそが収益性の高い企業をつくる」という考え方が注目を浴び、これが日本に渡って健康経営の礎となりました。
健康経営という言葉が世間一般に認知されたのは、2014年より経済産業省が開始した「健康経営度調査」です。この調査をもとに、2015年からは優良な取り組みを行う上場企業を「健康経営銘柄」として選定し、さらに2017年からは、「健康経営優良法人」に認定する制度を開始したことで、健康経営というキーワードが広まっていったのです。
健康経営が注目されはじめた理由
——健康経営の成り立ちは理解できました。では、日本で健康経営が注目され、普及が進んだ社会的背景について教えてください。
新井卓二:先の通り、かつての日本社会は「がむしゃらに働くこと」が美徳とされる風潮がありましたよね。その結果、体調を崩し、メンタルヘルスを失調する人がいても「体質が弱い」「心が弱い」とみなされるだけで、企業が責任を感じることも、具体的な改善行動もなかったのです。「弱いのだからしかたがない」ということです。
しかし、過労を原因とする心身の失調は、うつ病や自殺の増加というかたちで社会問題化しました。2000年代には過労死ラインを大きく超えて残業を強いる企業は、「ブラック企業」として社会で危険視されるようになっていきますが、採用市場は人余りの買い手市場であり、状況は改善しません。
転機となったのは、悲しい事件ですが、2015年に起きた広告代理店に勤務する社員の自殺です。ひとりの新入女性社員が過労により自殺した事件が連日のように報道され、社会の高い関心を得たことは、記憶に新しいのではないでしょうか。さらに、人材不足による採用難の顕在化もあいまって、社会の働き方に対する意識が大きく変わったのです。
こうした流れが、先の「健康経営度調査」や「健康経営銘柄」「健康経営優良法人認定制度」の他、「ストレスチェック」制度(常時50人以上の従業員を雇用する事業所において義務化された)の浸透につながったと考えられます。
そのため、「健康経営優良法人」の認定は毎年更新されるのですが、2024年度は大規模法人部門で2.988法人、中小規模法人部門で16,733法人が認定(2024年3月11日時点)を受け、着実に健康経営は拡大していると言えるからです。
——健康経営の普及には、実施企業のメリットもあったからでしょうか?
新井卓二:経済産業省からすれば、補助金や助成金もつけずにこれだけ健康経営が普及したのですから、まさに大成功です。その要因は、「健康経営優良法人」という認定制度だけではなく、わたしは「健康経営の実践を通じて、健康的な従業員の存在がビジネスにおいて重要だと企業が実感できたから」だと考えています。
実にシンプルなことです。「健康経営優良法人」に認定されるためには、経済産業省の「健康経営度調査」で一定の評価を受ける必要があります。その調査票は、大規模法人の場合で85設問、中小規模法人で29設問からなり、例えば、定期健診受診率100%、健診後の受診勧奨、ストレスチェックの実施、管理職または従業員に対する教育機会の提供、適切な働き方の実現及び育児介護の両立支援の取り組み、職場内のコミュニケーション促進、私病に関する復職・両立支援、保健指導の実施、食生活の改善・運動機会の増進、女性の健康増進、長時間労働者への対応、メンタルヘルス対策、感染症予防、喫煙率の低減、受動喫煙対策……など多岐に渡ります。
これらの取り組みを実施すれば、従業員の心身の健康に好影響があらわれるのは必然でしょう。定性的には「笑顔が増えた」「活気が生まれた」と感じますし、定量的には「生産性が向上した」「採用者が増えた」「離職率が減少した」といった事業へのメリットが生じます。より具体的な健康経営推進による効果について、経済産業省は定量的な投資効果を算出する方法も含めてWeb上で情報開示していますので、ぜひ目を通してほしいと思います。
健康経営の実践に向けたステップ
——これから健康経営を実践する企業は、まずなにを実践すればいいでしょう。正しい健康経営のあり方についてお聞かせください。
新井卓二:よくあるのが、健康経営に取り組むにあたり、多くの企業がまず最終的なビジョンを描こうとして「正しい健康経営のあり方」を探してしまうことです。しかし、健康経営に正解はありません。
わたしはよく、健康経営を空手に例えています。空手には基礎や型こそあるものの、その先は各自が自由に発展させていくものです。健康経営も同様で、経済産業省の「健康経営度調査票」が基礎や型にあたりますが、それがクリアできたのなら、その先は各企業が独自に発展させていくものであると考えているのです。
下記は、健康経営戦略の構築における3つのステップです。
- 経済産業省の「健康経営度調査票」に回答し、基本的な取り組みを把握する
- 健康経営の投資効果を測定する
- 自社の経営資源を活用し、企業理念やビジョンに沿った独自の健康経営を目指す
これから健康経営を実践する企業は、まずは「健康経営度調査票」のチェック項目を埋めていくことを目指すといいでしょう。この取り組みを愚直に実践するだけで、従業員の健康状態や社内の雰囲気に改善が見られるはずです。
ただし、成果に焦ることは禁物です。従業員の協力姿勢も、心身の健康も、それによる雰囲気の変化も、すぐに目に見えてあらわれるわけではないからです。健康経営の投資効果を定量・定性の両面で測定しながら、着実に進めていきましょう。
——「健康経営度調査票」の推進にあたり、経済産業省の「健康経営優良法人認定」を得ることを目標とするのがよさそうですね。
新井卓二:「健康経営度調査票」が優良と認められれば、「健康経営優良法人認定」には大規模法人部門8万円(別税)、中小規模法人部門1.5万円(税別)の申請費用で認定してもらえます。さらに、認定企業のなかでも上位の評価を得ると、大企業では「ホワイト500」、中小企業では「ブライト500」、今年から「ネクストブライト1000」の認定を得られます。ひとつのトロフィーとして、健康経営を担当する従業員や経営者にとってモチベーションになるのではないでしょうか。上記は、2024年3月発表の「健康経営優良法人認定2024」までの規定です。規定が変更となる可能性もあるため、現在の認定の詳細は下記のサイトを確認してください。
参考リンク:ACTION!健康経営 | 日本健康会議
ただし、わたしは「健康経営優良法人認定」そのものは差別化するものではなく、認定企業数が増加する現状を踏まえれば、「あたりまえのもの」になると考えています。先のステップ3にある、自社らしい独自の健康経営を打ち出していくことが、社会にインパクトを与え、採用やブランディングにおける差別化になるはずです。
例えば、大手水産食品会社のニッスイでは、従業員の健康促進におけるKPIとして「喫煙率の低減」「肥満率の改善」「EPA/AA比の向上」を掲げ、その取り組みや進捗を公開しています。喫煙率や肥満率はわかりますが、「EPA/AA比」はなにかというと、血中のEPA(青魚などに含まれる成分)とアラキドン酸の比率で、EPAの比率が高いほど生活習慣病予防につながるとされます。
なぜそこに着目しているのかといえば、EPAは、ニッスイのファインケミカル事業において中核をなす機能性食品なのです。従業員にEPAを通じて食生活改善を呼びかけていくことが、従業員が自社製品の効果を実感する機会となり、「自信を持って売れる」「うちの会社凄いな」と思えるロイヤリティ向上施策となるわけです。
経済産業省の「健康経営優良法人認定」のホームページでは、様々な企業のステップ3の健康経営モデルを見ることができます。ぜひ、参考にしてください。