人的資本投資として、約5倍のリターンを期待。経営戦略としての健康経営の価値
健康経営の普及・推進を管轄する経済産業省では、健康経営について「従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践すること」と定義している。健康経営は、ただの福利厚生強化や採用促進、あるいはブランディング施策ではなく、人材を経営資源と捉えて戦略的投資を行う経営戦略といえるだろう。『改訂 最強戦略としての健康経営: 競争優位とサステナビリティを生む人的資本のためのビジネスモデル』(同友館)の著者である新井卓二氏に、健康経営の投資効果について解説をお願いした。
構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人
健康経営における経営戦略としてのメリット
——「健康経営優良企業認定」の設立をはじめ、経済産業省は企業による健康経営の導入を力強くバックアップしています。健康経営を普及することで、同省はどのような社会的メリットを期待しているのでしょうか。
新井卓二:少子高齢化にともなう日本の様々な社会課題のなかでも、労働生産人口の減少と医療費・介護保険給付費の増加という、このふたつの課題解決のアプローチとして、経済産業省は企業への健康経営の普及・推進に取り組んでいます。
そのため、健康経営に取り組む企業が増えることで、生き生きと生産性高く働ける人が増え、生産年齢時や老後も含めて心身の健康を保てるという国レベルでのメリットがあります。
具体策として、経済産業省では毎年企業に対して「健康経営度調査票」による任意調査を実施し、優秀な取り組みを行う大企業及び中小企業に対して、「健康経営優良法人認定」を行っています。この調査は2014年から、認定制度は2017年から実施され、年々調査に応じる企業、認定企業共に増加の一途にあります。
——健康経営を実践する企業が増えているのは、社会の要請であるだけでなく、自社にとって明確なメリットがあるからでしょうか。
新井卓二:経済産業省では、健康経営について「従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践すること」と定義しています。つまり、健康経営とは経営戦略なのですから、「実施のメリット」というより「戦略的投資によるリターン」とするのがいいとわたしは考えます。その投資リターンについて、経済産業省では下図のように時系列で定義しています。
出典:健康経営の推進について | 経済産業省(令和6年3月)を Bring. にて加工
左下の起点には、健康経営の実践として「人的資本に対する投資」とあります。人的資本とは「従業員が持つスキルや知識、ノウハウ、資源などの能力を経営資本として捉える考え方」のことですから、健康経営とは人材を経営資源と考えて強化する戦略投資です。
その投資に対するリターンとして、はじめに個々の従業員の健康増進と活力の向上が見られます。実際に、健康経営をスタートした多くの企業から、「従業員の笑顔が増えた」「活気が増した」「コミュニケーションが増えた」という声がよく聞かれるのは、それが比較的早期にあらわれる投資効果だからです。
さらに継続的に健康経営を行うことで、組織的なバイタリティが高まって事業が拡大し、社会に「働きやすい職場」として認知されることで、採用促進と離職抑止によるスムーズな人材マネジメントができ、最終的に生産性の向上とイノベーションの発現による事業成長という投資リターンが見込まれるというわけです。
逆をいえば、旧態依然とした不健康な働き方の企業では逆相関のマイナス成長が起こり、企業の人材基盤がガタガタになってしまうことは想像に難くないでしょう。
健康経営は約5倍の投資リターンが期待できる
——健康経営を経営戦略として策定するためには、投資リターンに関する損益の算出やKPIの設定が必要になると思います。定量的に投資リターンを計測することは可能でしょうか?
新井卓二:もちろん可能です。経済産業省でも健康経営の投資リターンについて情報開示していますが、わたしの著書『改訂 最強戦略としての健康経営: 競争優位とサステナビリティを生む人的資本のためのビジネスモデル』(同友館)でも、以下の項目で定量的な投資リターンの測定について掲載しています。
先に示した経済産業省の図は時系列(図1)ですが、健康経営の主だった投資リターンを項目化すると「イメージアップ」「リクルート効果」「モチベーションアップ」「生産性の向上」「医療費の削減」の5つに分類されます。
例えば「生産性の向上」の場合、健康経営の短期的なリターンとして従業員の欠勤率やアブセンティーイズム(心身の不調を原因とする遅刻や早退、欠勤、休職など、業務が行えない状態)の減少が期待できます。これらは、日数と賃金を掛け合わせることで「労働生産性損失額」が計上できます。
また、中期的なリターンとして離職率の減少が期待でき、採用コストや教育コスト、退職金などを見積もることで損失額を計上できます。健康経営によって、それらの損失を食い止められたのであれば、それが投資リターンとなります。
さらに長期的なリターンとしては、プレゼンティーイズム(アブセンティーイズムが「業務を行えない状態」を指すのに対し、心身の不調などを抱えてパフォーマンスを落としながら「業務を行う状態」を指す)の改善が期待できるでしょう。算出方法は、「心身の不調がないときに出せるパフォーマンス」を100%として、従業員に直近の仕事のパフォーマンスを数値で回答してもらう調査によって行います。
その他、様々な算出方法が経済産業省資料にて公開されています。なお、すべての項目で効果測定を行った場合、健康経営にかけたコストのおおむね5倍以上の投資リターンが算出できます。健康経営優良法人では、リターンが10倍にも及ぶケースさえ見られます。
健康経営の「リクルート効果」
——健康経営の「リクルート効果」については、短期的な投資リターンの測定に「内定者アンケート」を効果指標としています。そもそも健康経営は採用応募者に対して、どれほどのアピールになるのでしょうか?
新井卓二:「リクルート効果」の評価方法としては、内定者に「当社を選んだ理由」をアンケート調査するということです。おおむね健康経営に関連する理由が上位3位に入りますから、応募者の健康経営に対するニーズは高いといえるでしょう。
ただし、新卒に限っていえば、健康経営に取り組む企業数が増加傾向にあるのに対し、新卒採用に応募する学生たちの健康経営というキーワードへの認知度はそれほど高くありません。
わたしが9大学169人の大学生に行った2020年のアンケート調査では、健康経営の認知度はわずか14%でした。しかし、「健康経営とはどういうものか」を説明すれば、実践する企業への就職希望は83.4%と高いのです。つまり、学生たちは健康経営というキーワードで企業を判断しているわけではないものの、「健康的に長く働けそうな職場」を求めているということです。
学生たちは、ざっくりと「ブラック企業」「ホワイト企業」という視点で企業の健康経営度を見ています。そこで、彼ら彼女らが「ホワイト企業」をどう定義づけているか調査したのが、以下のデータです。
さらに、同調査の「就職する際に重視する項目」では、以下の回答が得られました。
この調査は隔年で実施しているのですが、学生たちの求める傾向は大きく変わりません。わたしが大学の教壇に立っていても感じることですが、いまの学生は意思や人格を尊重されて育っており、否定されることに抵抗感を持っています。ですから、企業に求める項目にも「配慮」という言葉が目立ちます。
また、働き方や休暇に対する意識が高く、仕事と子育ての両立に対する意識が高い傾向にあります。これは、働き方における世代間ギャップの影響があると見ています。
いまの40代、50代以上の従業員は、健康経営の逆をいく無理な働き方をしてきた世代であり、いまの大学生の親世代にあたります。「子どもの頃、運動会に父親が来てくれなかった」「いつも帰りが遅くてさびしかった」という子ども時代の経験から、親世代、ひいてはかつての労働社会を反面教師とするかたちであらわれているのではないかと考えています。
——学生たちが雇用や業績の安定を求めるのには、どのような背景があるのでしょうか。
新井卓二:学生が企業に安定を求めることは昔から変わりませんが、現代の学生において安定は、より関心の高い項目といえるでしょう。というのも、「60代で定年」というのは人生80年時代の考え方であり、人生100年時代となった現代では、学生たちは80代になっても働かなければならない可能性があるからです。年金受給開始年齢引き上げの問題も踏まえ、いまの学生たちは高校でライフプランについて学ぶ機会があります。また、コンビニエンスストアやファストフード店で高齢者が働いている姿も実際に見ているわけです。
そうした危機意識から、学生たちは「健康的に長く働ける会社」を求めて、企業の事業継続性や雇用を守る姿勢を重視していますし、福利厚生や働き方の方針を見定めているといえます。
——中途採用における、健康経営の効果や必要性についてはいかがでしょうか?
新井卓二:いまは在職中の従業員や退職者による企業のレビューサイトがありますから、企業が採用案内に記載する以上の実態がわかってしまいます。前職の企業との比較が容易にできますから、健康経営を推進し、具体策と取り組みを明確に開示することが応募者にとっての決め手になるでしょう。
また近年では、健康経営を実践する企業から、そうでない企業へ転職した人材の「カムバック採用」が増えています。不満や意向があって転職したものの、「前の会社のほうがよかった」と気がついて戻ってきてくれるのです。
独りよがりの健康経営が生み出すデメリット
——健康経営の実施の仕方によっては、リターンを得られずコストが嵩んでしまったり、悪影響を及ぼしてしまったりするなど、デメリットにつながるケースもあるのでしょうか?
新井卓二:健康経営を行えば、「必ずリターンを得られる」というわけではありません。中途半端な取り組みに終始し、従業員の理解が得られなければ効果は出ず、かけたコストも回収できないでしょう。
しかし、実のところ経済産業省の「健康経営度調査票」にある85設問約240項目から、現時点で出来そうな取り組みを徹底するだけであれば、手間こそかかるものの、新たに大きなコストをかけずとも実践は可能です(ただし産業医の導入など、健康経営に関わらず義務化された制度をすでに実施している場合)。健康経営の推進・普及は中小企業も対象にしている以上、コストをかけずにできるプロセスを想定しているのです。
では、「健康経営はデメリットになりようがない」かというと、そうでもありません。例えば、「健康経営度調査票」には「喫煙率低下に向けた取り組み」が規定されています。しかし、愛煙家に対して禁煙を強要すると、生産性やエンゲージメントが低下することがデータからわかっています。喫煙は健康を害するものですが、人生の喜びになっている人からタバコを不本意に取り上げれば、強い不満やストレスになるわけです。
だからといって、「喫煙を許容すべきだ」というわけではありません。こうしたデメリットは、あくまで「不本意」から生じるものです。取り組みに対する従業員の納得感がともなうよう、会社の意向を伝え、また意識変容につながる健康教育などの機会を設けることが大切でしょう。
今後、同様のことが飲酒習慣についても起こると思います。これまで飲酒は「適量なら害はない」とされてきましたが、「摂取量に関わらず有害である」とする最新研究が話題になっています。タバコの話には懐疑的だった人も、「従業員に禁酒を押しつけたらエンゲージメントが下がる」のは納得しやすいのではないでしょうか。
——全従業員一律で強制するのではなく、個々の従業員に合わせて、ゆとりのある健康改善策を行うことも必要でしょうか。
新井卓二:健康のためとはいえ、規制または要求する内容や従業員の実態によっては、柔軟に考えなければならないでしょう。また、施策に対する反応にも世代差があります。例えば、ある企業では従業員の健康状態や歩数計などのデータをもとに、AIが社員食堂で最適なメニューをレコメンドするシステムを導入しました。
若い世代は合理的で柔軟な傾向があるので、健康メリットのあるレコメンドを喜んで受け入れます。しかし、40代以上の従業員では「制約されている」かのような抵抗感と不快感を覚える人が多いそうです。ですから、健康経営の施策を企画する側が「絶対にいいものだ」と思っていても、パーソナリティ次第で反発やストレスを感じる人もいるということです。「健康」は大切なことですが、大義を振りかざして強硬に進めるのではなく、従業員の反応を見ていくことが重要といえるでしょう。