健康経営は新たなステージへ。社会的価値を高める健康経営の課題と展望
健康経営の問題点のひとつは、健康意識の地域差にあるといえる。例えば、都心部では喫煙の健康被害は広く知られ、職場の禁煙環境は当然視されるようになった。しかし、地方にいけば「社内を完全禁煙などにしたら反発に遭う」ということも珍しくないのが実情だ。いま、健康経営は上場企業を中心に広く普及したが、今後はどこに向かっていくのだろうか。健康経営の展望、現在の課題、発展性など、最新のトピックについて健康経営普及・推進の第一線にいる新井卓二氏に聞いた。
構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人
投資時代において高まる健康経営の価値
——2024年に「新NISA(少額投資非課税制度)」がスタートし、株式投資への関心が高まっています。そうしたなか、健康経営が株式市場に与える影響についてお聞かせください。
新井卓二:経済産業省は2015年に東京証券取引所と共に「健康経営銘柄」を設立し、優れた健康経営を行う上場企業を選定しています。これは毎年、経済産業省が全国の企業に任意で行う「健康経営度調査票」を使い、優良な取り組みを行う上場企業から選定します。
これとは別に「健康経営優良法人認定」があり、同じく「健康経営度調査票」を使い、優良な取り組みを行う大企業や中小企業を表彰する制度です。上場企業の場合は社会一般向けに「健康経営優良法人認定」を取得し、株式市場に対しては「健康経営銘柄」に選定されることがアピールにつながります。約4,000銘柄ある上場企業のうち、2024年に「健康経営銘柄」に選定されたのは27業種53社ですから、そうそう簡単に選定されるものではありません。
いうまでもなく、人材は企業の根幹です。従業員の健康を重視することは、事業継続性としてサステナビリティの観点から投資家に評価され、株価に反映されることが期待できます。
——近年、上場企業は投資家に対して、業績のみならず非財務情報(経営戦略や経営課題、サステナビリティの取り組みなど、数値や数量で表せない情報)の開示や、人的資本(従業員が持つスキルや知識、ノウハウなどの能力を経営資本として捉える考え方)の情報開示が求められています。健康経営の取り組みは、投資家が求める非財務情報や人的資本において、どのようなアピールにつながるでしょうか。
新井卓二:まず非財務情報の観点では、健康経営によって行う従業員の健康増進や活気ある職場づくりへの積極的な取り組み、それらによる成果は、すべて投資家にとってポジティブな非財務情報となります。先の通り、人材は企業活動の根幹であるからです。
人的資本経営については、経済産業省の説明によると、「人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」とされています。サステナビリティの観点から人材を企業の資産として重視する流れが世界的にありますし、とりわけ日本では少子高齢化による労働人口減少の深刻化を受けて、人材重視の経営が求められています。
健康経営の推進も、人的資本経営の推進も、どちらも経済産業省の管轄ですから、同省では「健康経営は人的資本経営の土台」だと位置づけています。人的資本投資は、従業員の教育や効率的で働きやすい環境整備、働き方の改善、賃上げ、ウェルビーイングの実現など多岐に渡りますが、それらすべてが土台に「従業員の健康」なくしては成り立たないということです。
こうした考え方をベースに、健康経営の情報開示に注力する企業もあらわれはじめています。一般に、企業の健康経営に関する情報は、会社案内の他、財務情報と非財務情報を一冊にまとめた「統合報告書」、あるいはWebサイトで開示されています。
それだけでなく、非財務情報を個別に紹介する「サステナビリティレポート」や「人的資本レポート」など様々なものがありますが、近年では健康経営の情報開示に特化した「健康白書」を発行する企業が増えているのです。サントリーホールディングスやANAなどのように、PDFでの閲覧を前提としたものが多いようですが、ニトリホールディングスでは紙の冊子を作成し、従業員や株主などのステークホルダーに配布もしているそうです。
これらは投資家とのコミュニケーションだけでなく、従業員のエンゲージメント向上や採用広報も目的であると思います。言葉を尽くして健康経営を発信することで、「従業員を大切にしている」「健康的に長く働けそうだ」と感じさせる内容になっています。
地方自治体による中小企業への健康経営推進
——健康経営における、新しい動きやトレンドはありますか?
新井卓二:2021年から、経済産業省は地方自治体と連携した健康経営の普及・推進をスタートしました。つまり、健康経営の地方への普及・推進の流れが生じています。
企業の健康に対する意識は、都市圏と地方では大きな隔たりがあるといえます。例えば、わたしは研究やコンサルティングで大企業にリサーチを行いますが、都市圏の本部と地方の生産拠点で、従業員の健康意識に格差が生じているのは、よくある話です。
また、地方の中小企業では、健康経営はあまり認知されていないと考えられます。その原因のひとつは、地方の中小企業の規模が小さいことにあり、従業員数が常時50人未満の事業場では産業医の選任義務がないため、企業として健康意識を高める機会にどうしても欠けるのです。
しかし、経済産業省では全国の地方自治体に対する働きかけを行い、公務員の健康経営を実現するとともに、地方自治体による地域の中小企業の健康経営の推進体制を確立しようとしています。その関係で、わたしも毎月のように各自治体での講演会やフォーラムに登壇し、健康経営の考え方をお伝えしています。
——公務員の健康経営の推進とは、どういうことなのでしょうか。
新井卓二:経済産業省が推進する健康経営のベースは、「健康経営度調査票」です。よって、調査票のチェック項目を満たすことが、健康経営におけるひとつの「型」になっているのです。ただし、この調査票は民間企業を対象とし、労働基準法が定める働き方をベースにつくられているため、地方公務員法や国家公務員法に従う公務員の働き方には一部そぐわなかったのです。
そこで、公務員仕様の健康経営の「型」をつくり、省庁や役所だけでなく学校や警察署、消防署などの健康的な働き方を実現しようとしているというわけです。国家公務員と地方公務員は、合わせて全国に約335万人(2023年時点)いますから、地域社会への健康経営の認知拡大と普及に大きなインパクトを与えることができます。
——地方自治体による中小企業への健康経営の推進についても解説をお願いします。
新井卓二:地方自治体における地域課題のひとつは、高齢者の定期検診受診率の低さです。会社勤めのあいだは企業からの強制力もあって定期検診を受けるのですが、定年退職して国民健康保険に加入すると、多くの高齢者が、市区町村が実施する定期検診を受けなくなってしまうそうです。
定期検診を受けずに健康を害する高齢者が増えると、国民健康保険の医療費は都道府県が4分の1、市区町村が2分の1を負担するため、財政を圧迫してしまいます。また、心身の不調から外出機会が減少し、フレイル(心身の虚弱状態)や認知症に陥る高齢者が増えれば、街の活力も損なわれるでしょう。
その解決策として、地方自治体による中小企業の健康経営の推進が進められています。健康経営を実施する企業の従業員は健康意識が高く、定年退職後も定期検診の受診率が高いというデータがあるそうです。そのため、地域の中小企業の健康経営を推進すれば、将来の高齢者の定期健診受診率も向上するというわけです。
「キャリア・ウェルネス」が新たな働き方の軸になる
——定年退職後の従業員の健康意識について言及がありましたが、2022年に老齢年金の繰下げ受給の上限年齢が75歳に引き上げられ、将来的には受給開始年齢も引き上げられる可能性があります。企業が高齢者を継続雇用する場合、求められる健康経営のあり方も変わり得るでしょうか。
新井卓二:未来予測ではありますが、わたしは企業が従業員に対して提供するヘルスケアサービスは広がっていくと考えます。現在では、義務化されている定期検診の実施の他、社内でのフィットネスやヨガ、リラクゼーションの実施や生活習慣の改善セミナー、社員食堂で健康メニューを提供する企業もあります。今後は、認知症予防プログラムやオーラルケア、フレイル対策、アイケア対策など、高齢期の健康状態を意識したプログラムを提供していくことになるのではないでしょうか。
——正直なところ、「企業がそこまでしなくてはいけないのか」という気もします。
新井卓二:もちろん義務にはなりませんが、そこまでする企業だからこそ、「長く健康に働ける企業」として認知され採用応募や投資が集まるということです。その背景にあるのは、「キャリア・ウェルネス」の考え方です。
コンセプトは、キャリアコンサルタントである村山昇氏の著書『キャリア・ウェルネス 「成功者を目指す」から「健やかに働き続ける」への転換』(日本能率協会マネジメントセンター)を読んでいただくのがいいでしょう。これからの労働観、特にキャリアに対する考え方は変わっていくということです。
これまでのキャリア形成の目的は、「社会的に成功するため」でした。スキルと経験、実績、ポジションを高め、より重要な仕事と報酬を与えられるよう働くのです。そこには、高いモチベーションとハードワークはつきものであり、しばしば健康は置き去りにされてしまいます。
それよりも、「健やかに働き続ける」ことを目的とした「キャリア・ウェルネス」の考え方が、これからのキャリアプランに求められます。なぜなら、人生100年時代を迎えたいま、わたしたちは70歳や75歳、あるいは80代になっても働き続ける可能性があるからです。
——誰もが70歳、80歳になってもバイタリティに溢れて働けるわけではありませんよね。
新井卓二:そうです。若い頃からがむしゃらに働いて、高齢になってもバリバリ働けるのは、精神的にも肉体的にも強い一部の人なのです。でも、そんな人ばかりではありません。これから労働生産人口は減少し、企業はさらに若い人の採用が困難になります。そうなれば、従業員の定年年齢を引き上げざるを得ません。それなのに、30代~50代の従業員に負荷をかけて不健康にしていては、高齢期に活躍することができないのです。
すべての従業員が70歳、80歳になっても元気に働き続けられるよう、企業は若い従業員にも健康的な働き方とキャリアプランを提供し、高齢の従業員には先の高齢者向けヘルスケアを提供することが必要になるとわたしは考えています。
中小企業であっても、将来的には健康経営なくして経営は立ち行かなくなります。まだ健康経営の実践にいたらない企業は、まずは「健康経営度調査票」を手に取り、できることからスタートしてください。