「普通」という概念をなくすることで浮かんでくる、LGBTQ+と多様性の本質
いま、企業ではDEI(Diversity, Equity & Inclusion)の観点から、従業員の多様性を認め、働きやすさや人材活用のあり方を模索している。しかし、「多様性」という言葉には、マジョリティとマイノリティの立場があり、その推進は得てしてマジョリティの側が行うものでもある。果たしてマジョリティの側から、マイノリティを真に理解することは可能なのだろうか。ドラァグクイーンとして活躍し、ゲイを公表するドリアン・ロロブリジーダ氏に、LGBTQ+というマイノリティの立場から、アドバイスをお願いした。
構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人
多様性が生み出す組織のレジリエンス
——ドリアンさんはドラァグクイーンとしてのステージングだけでなく、LGBTQ+への理解促進や、DEI(Diversity, Equity & Inclusion)など、社会の多様性に関する企業向け講演やイベントに登壇する機会も多いそうですね。ドリアンさんにとって、「多様性を内包した社会」とはどのようなものでしょうか。
ドリアン・ロロブリジーダ:「多様性」という言葉が企業で語られるようになって久しいですが、わたしは多様性を内包する社会を「柔らかくてしなやかな社会」という言葉で表現したいと思います。
企業組織でいえば、従業員が同じようなバックグラウンド、同じ価値観、同じ意見を持ち、同じ方向を向いている同質的な組織は、確かに安心感があり、管理もしやすく、統率の取れた強さがありますよね。しかし、それは硬直化した組織と見ることもでき、不測の事態に直面したとき柔軟な発想や対応力には欠けるようにも感じます。
現代社会は非常に不確実性が高く、明日なにが起こるかもわかりません。そうしたなかで、多様な目線や見方が尊重される組織は、これまで経験したことのない問題が発生したときにも柔軟な対応ができるのではないでしょうか。
性別や性的指向、人種、障害など、様々な特性や特徴、バックグラウンドを持つ人々が混在すれば、日常的に「違い」や「不便」にぶつかって当然です。そのなかで、互いの理解を図り、不便の解決に向けて手を取り合い、異なる視点と強みを活かしている組織は、経営上の困難にあたっても、多角的な視点で解決策を見出せるはずです。
——多様性への取り組みは、企業組織のレジリエンスを高める可能性があると考えているのですね。
ドリアン・ロロブリジーダ:そう思います。ただし、「ビジネスとしてメリットがある」という理由だけで多様性を推進するのは、価値観として少しさみしい話ですよね。わたし自身も、企業の経営層の方々と多様性やDEIについて語るとき、メリットから入るのは関心を持っていただきたいからであり、あくまで付加価値や相手を納得させるための論理に過ぎません。
その先にあるべきは、「ひとりでも多くの人が生きやすい、過ごしやすい社会がいいよね」という、ソーシャルグッドの視点であってほしいと思っています。
多様性社会において求められる個人のスタンス
——多様性ある社会や組織としてのポリシーが定められる一方で、「個人」としてどのように立ち振る舞うべきかについてはあまり語られません。ドリアンさん自身は、多様性を踏まえてどのような人との接し方を心掛けていますか?
ドリアン・ロロブリジーダ:わたしのまわりにはLGBTQ+の人たちが多いのですが、そうしたセクシュアリティに限らず、誰もがアイデンティティや考え方、興味関心はそれぞれ異なりますよね。ですから、大前提として「自分と他人はまったく違うもの」だと思っています。
会社の同僚はもちろん、親子でも夫婦でも、自分と相手は違う考え方を持つ、まったく別の人間です。そう考えれば、「わたしがそう感じるのだから、あなたもそうでしょ?」という、決めつけを避けられますよね。私自身つい「自分のなかの常識」にとらわれてしまうことはよくあるので、つねに相手との違いを想像して会話をするようにしています。ですから、意見がぶつかったときは、「普通は」とか「常識的に」で封殺するのではなく、「どう擦り合わせていくか」「どこに落としどころを見つけるか」を考えるように気をつけています。

——自分がマジョリティの側にあるときこそ、「マジョリティの論理」でマイノリティの人を傷つけてしまったり、不遇を与えたりしないよう気をつけたいですね。
ドリアン・ロロブリジーダ:そうですね。組織においても、10人中6人が「これがいい」といったから残りの4人を無視するような考え方は、合理的ではあるけど、それでは「マジョリティのための場所」になってしまいます。その4人の居心地をどうよくできるかを、一人ひとりが考えることが、多様性ある社会・組織において肝要です。
それはいま、マジョリティの側にある人の生きやすさにとっても、大切なことです。なぜなら、人は誰でも「いつかマイノリティになる可能性がある」からです。明日、事故や病気によって障害を抱えるかもしれないし、貧しさを抱えるかもしれない。または、社会の急激な変化によって、自分の価値観や思想がむしろマイノリティになるかもしれません。そう考えると、マイノリティにとって居心地のいい社会は、マジョリティにとっても安心感のある社会となるはずです。
「普通」や「マジョリティ」の外から多様性を考える
——「人は誰でも、マイノリティになる可能性がある」とおっしゃいましたが、それこそLGBTQ+にもグラデーションがあり、実は誰もがLGBTQ+の要素を持っているという考え方もありますね。
ドリアン・ロロブリジーダ:想像がつかない方も多いと思うのですが、性自認も、性的指向においても、「男か女、どちらか100%」ということはないとわたしも感じています。「男らしく」「女らしく」という強迫観念や思い込みがセクシュアリティを規定しているだけであって、誰もがグラデーションの中にいるのです。
それこそ、60歳を超えて、お孫さんもいらっしゃる男性が「僕は(性自認が)男性じゃないかもしれない」といって、自身がトランスジェンダーだと気がつくこともあるくらいです。あるいはトランスジェンダーとしての自覚はなくても、性表現として女性的な装いを好む男性もいますよね。もちろん、その逆も然りです。

——例えば男性の性的指向で考えた場合、「男性が好きだ」という自覚があるから「ゲイ」とされるものの、自覚していないだけだったり、自覚できないレベルで同性愛の指向を持っていたりする可能性もあるわけですね。
ドリアン・ロロブリジーダ:そうですね。また、バックグラウンドや趣味指向、考え方、価値観など、あらゆるパーソナリティにおいて、「普通」というのは存在しないと思っています。「普通」も「常識」も、時代やコミュニティが変わればまったく異なるものであって、横串にできる普遍性はありません。
でも、便利なのですよね。「普通」といえば、自分がマジョリティの側にいて逸脱しない存在であると感じられます。そして、マイノリティを「普通」ではない異質なものとしてみなす口実を与えてしまいます。でも「普通」なんて、その時々のマジョリティにとって納得しやすい価値観に過ぎず、空虚な概念なのです。
だから、つい口にしてしまうことはあるのですが、わたしは「普通」という言葉をできるだけ使わないようにしていますし、「普通ってなに?」という疑問を持ち続けています。みんな、人とは違うなにかを持っていて、誤解を恐れずいえば「誰もが、どこかしらが変」なんです(笑)。
「誰もがみんな変なのだから、変なもの同士どうやってすり合わせていこうか」――。そうやって、自分自身が「普通」や「マジョリティ」という安全地帯から一歩踏み出して考えてみることで、多様性に対するものの見方は変わるのではないでしょうか。