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経営者の「人間愛」が組織を変える。ウェルビーイング経営が制度構築だけでは難しいその理由

前野隆司まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

健康経営や働き方改革の推進とともに、いま注目が集まるウェルビーイング経営。しかし、いくら制度を構築しても、エンゲージメントサーベイによる成果につながらないという声も聞かれる。そこで、幸福学研究の第一人者である前野隆司氏に、ウェルビーイング経営を実現するために必要となる、本質的な要素と実践方法について聞いた。

構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人

精神の伴わない制度ではウェルビーイング経営は実現しない

——いま企業では、ウェルビーイング経営に注目が集まっています。その背景について、どのように捉えていますか?

前野隆司:ウェルビーイング経営が注目された背景には、健康経営と働き方改革の推進があります。経済産業省が推進する健康経営は、従業員の活力向上や生産性の向上、組織の活性化などを期すものであり、従業員の幸福につながるテーマが謳われていますよね。そこから、ウェルビーイングへの関心も広がっていったと見られます。

また、働き方改革自体はウェルビーイングの概念を内包したものではありませんが、生産性向上に向けたアプローチを模索するなかで、ウェルビーイングの価値に気づくきっかけになったでしょう。

近年、ウェルビーイングの研究が進み、心理学や経営学の領域で多くのエビデンスが示されています。有名な例を挙げると、『ハーバード・ビジネス・レビュー』(ダイヤモンド社)の2012年5月号で発表された研究によれば、幸福度の高い従業員の創造性は、そうでない従業員の3倍、生産性は31%、売上は37%高いとされています。

こうした経営上の実利への期待に加え、労働者の流動性が高まり、待遇だけでなく豊かで働きやすい職場に採用応募が集まることや、サステナビリティ向上に取り組む観点からもウェルビーイングへの注目は高まってきたと考えます。

——ただ、実際にはウェルビーイング経営の実現に向けた施策がなかなか成果につながらないケースも多いと聞きます。

前野隆司:そうですね。先に述べたような恩恵は、ウェルビーイングが真に実現できている場合に限ります。取り組みがうまくいかない企業は、多くの場合で実利を目的としてしまい、形式的な制度構築にとどまります。つまり、本質的なウェルビーイングの精神が伴っていないのです。

健康経営でさえ、「従業員の身体が健康であれば、無理が利くから生産性が上がる」と解釈している経営層は多いと感じています。しかし、それでは健康増進の制度そのものはできても、結局は業績のためなら従業員に無理をさせる、従業員も進んで無理をする、そうした不健康な組織風土は変わりません。

ウェルビーイングもまた、その目的が業績向上などの実利にあれば、制度を打ち立てたところで組織風土からウェルビーイングになることはないのです。

——「これをやればウェルビーイングになる」というものではないのですね。

前野隆司:ウェルビーイングとは、「肉体的、精神的および社会的に良好な状態」であり、幸せを実感するための土台となるものです。幸福には様々なかたちがあるように、ウェルビーイングを実現するためのファクターも様々です。

実際に、わたしたち幸福学の領域では、心理学的なアプローチのみならず、脳科学や工学、教育学、地域活性化など幅広い分野にまたがって、人々のよりよい生き方・働き方を研究しています。もし制度だけでウェルビーイングを実現しようとすれば、キリがないでしょう。

制度自体は、いま企業が取り組む人的資本経営、健康経営、働き方改革、DXなど、それらもすべてウェルビーイングを実現するためのファクターとなりますから、十分なのです。問題は、先に健康経営について述べたように、それらが形式的な取り組みになり、従業員の幸福につながらないかたちで運用されることにあります。

経営トップの「人間愛」がウェルビーイングの起点となる

——ウェルビーイング経営が形式的に陥らないためには、なにが必要ですか?

前野隆司:陳腐な物言いに聞こえるかもしれませんが、大切なのは従業員への「愛」に尽きます。自社で働く従業員への信頼、尊敬、尊重など、時々に応じて様々な表現がされますが、最大公約的にいえば「人間愛」といえるでしょう。

わかりやすい例を挙げれば、企業では法定雇用率に沿って障害者の雇用が推進されていますよね。その対策として、障害者に就業可能な事業を行う子会社を設立するだけで放置し、事業継続上の必要コストとして扱う企業は少なくありません。そうしたマインドで行われる障害者雇用では、多様性への理解もウェルビーイングも生まれないでしょう。

障害者一人ひとりの個を見れば、健常者にはない粘り強さや、現状を変えようとするひたむきな努力があります。それを見ようとする人間尊重の精神があればこそ、そこから尊敬と信頼が生まれ、すべての従業員に共通する「学び」や多様性への理解が得られるのです。

働き方改革や女性活躍推進、育休制度、ハラスメント対策などもそうです。制度を形式的に打ち立てるだけでマインドが伴わなければ、ただ現場を混乱させ、軋轢を生み、ウェルビーイングにマイナスの作用をもたらしかねません。

こうしたことを防ぐには、経営者がすべての従業員を尊重・尊敬し、従業員同士も尊重・尊敬を持って信頼関係と建設性が醸成されることが大切なのです。そうした「愛」がなければ、ウェルビーイングの実現を期した施策も「建前を通す」だけに終始してしまうでしょう。愛があればこそ、「みんなが幸せになること」を願って制度設計をし、PDCAサイクルを回して改善するモチベーションが生まれると考えます。

——エンゲージメントサーベイ、または近頃では「ウェルビーイングサーベイ」という調査方法もあります。これらの調査で実態を確認することも重要でしょうか。

前野隆司:それらのアンケート調査は制度の効果計測の基本ですが、絶対ではありません。組織の幸福を願う気持ちがなければ、やはり「建前を通す」ことが優先され、「うちの部署は高めに回答するように」という通達が管理職から出てしまいかねません。

制度の推進だけにとらわれているような、実態が見えていない経営者の企業を実際に訪問してみると、社員がつらそうな顔をして働いていることがよくあります。

主観的な意見になりますが、わたしの経験上、ウェルビーイング経営が実現している企業は、従業員の後ろ姿を見ただけでもわかります。掃除ひとつにもいきいきとし、お客様への本気の笑顔を浮かべ、人間力が輝いているのです。経営者が従業員に対する愛を持っていれば、エンゲージメントサーベイを見るまでもなくわかるはずです。

理念で愛を謳い、全社で共有する仕組みをつくる

——従業員への愛を経営トップが持つだけでなく、全社の従業員とマインドを共有するためにはどうするのがいいでしょうか?

前野隆司:やはり、経営理念やビジョンとして従業員のウェルビーイングを示し、一人ひとりの従業員の行動指針に落とし込んでいくことが重要です。

例えば、実業家の稲盛和夫氏が、京セラの創業にあたって経営理念を「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」と定めたことはよく知られた話です。この経営理念を実現するために、同社では「京セラフィロソフィ」という規範を全従業員が共有しています。

また、会社更生法の適用を受けた日本航空の経営再建のため、稲盛氏が2010年に会長職を任された際も、危機感がなく官僚的でもあった企業風土を一新するため、経営理念に「全社員の物心両面の幸福を追求」を追加しました。その根底にあるのは、「社員が幸せでなくてはお客様を幸せにはできない」という考え方です。

経営改善のためには徹底したコスト削減が必要ですが、「JALフィロソフィー」を設定し、あえて従業員教育にコストをかけて意識改革を図ることで、主体性や一体感を醸成していきました。従業員たち自身がいきいきと働けるマインドを育てることで、業績のV字回復を果たしたのです。

社会貢献や顧客第一、利益追求の姿勢は大事ですが、それで従業員を疲弊させたのでは意味がありません。まず、従業員のウェルビーイングを実現し、充実した心と体で生産性の向上を図り、従業員がいきいきと働いて社会貢献や利益向上を目指していくことが、これからの時代に求められる考え方です。

——まず、ウェルビーイングを理念に掲げ、マインドと制度の両輪で実施に落とし込んでいくのですね。

前野隆司:ただし、軍隊型で上位下達のようにマインドを落とし込むのでは、結局「やらされ」になってしまいます。あくまでも、マインドへの共感が大切であり、その共感をどのように実現させていくのかがキモとなります。

そのアプローチとして、工作機械のネジなどを製造する徳島県の西精工という企業の取り組みは特徴的です。約250名の企業ですが、従業員に行ったアンケート調査で「月曜日に会社に行きたいか」を問うと、なんと94%の社員が「行きたい」と答えるのです。

その秘訣は、毎日の「挨拶」「掃除」「コミュニケーション」の凡事徹底です。それだけで、ウェルビーイングのマインドを組織に落とし込めています。

大きな声で元気に挨拶をし、掃除をして環境を整えることで、心のコンディションを毎日整えます。そして、朝礼を毎日1時間近く行うのです。朝礼では経営理念について考える時間を設け、改善提案として「今日はなにをもっとよくするか」をみんなで話し合い、全員で取り組みます。そうすることで、ただトップが一方的に訓示を行う朝礼ではなく、従業員の一体感と相互理解が生まれる場になっているのです。

ただし、そのことを例に他の企業が1時間の朝礼を形式的に真似しても、きっとうまくいかないでしょう。業務時間が圧迫され、不満が募るだけになるかもしれません。同社では、まず創業の理念に従業員への「家族愛」を掲げています。そのうえで、日頃から社長自身が率先垂範で挨拶、掃除を行い、従業員とのコミュニケーションを大切にしています。

——従業員への愛を、企業としてのメッセージのみならず、トップが言葉と行動で示していくことで共感を得られるのですね。

前野隆司:そうです。もともと日本は、家族主義経営や年功序列、終身雇用といった制度があり、経営者を家長として従業員は兄弟姉妹のように一体感を持った企業が多かったのです。そして、それらがうまく機能しているあいだは、従業員にとって安心して働けるウェルビーイングな組織形態でした。日本は世界的に見て、創業100年を超える長寿企業が多いのですが、まさにウェルビーイングな組織であったからといえます。

なぜなら、従業員が仕事を愛し、同僚を愛し、業務を通じて顧客や社会を愛して自社に誇りを持っている企業——つまり、ウェルビーイングが実現している企業は、不況や経営環境の変化などの危機にも強いのです。従業員が逃げることなく危機に立ち向かい、企業の存続のために尽力してくれるからです。

しかし、バブル崩壊以降、集団主義的な経営は個人主義化し、経営と所有は分離されて創業家が離れ、人材の流動性は高まり、企業に家族の感覚は薄れてしまいました。もうかつての家族主義的な経営に立ち戻るわけにもいかない以上、これからの激動の時代に向け、どうすればウェルビーイングな日本企業の強みを取り戻せるのかを考えていただきたいと思います。

前野隆司 まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

1984年東京工業大学(現東京科学大学)卒業、1986年同大学修士課程修了。キヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て現在慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。武蔵野大学ウェルビーイング学部長兼務。博士(工学)。著書に、『ディストピア禍の新・幸福論』(2022年)、『ウェルビーイング』(2022年)、『幸せな職場の経営学』(2019年)、『幸せのメカニズム』(2013年)、『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004年)など多数。専門は、システムデザイン・マネジメント学、幸福学、イノベーション教育など。

前野隆司
前野隆司 まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

1984年東京工業大学(現東京科学大学)卒業、1986年同大学修士課程修了。キヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て現在慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。武蔵野大学ウェルビーイング学部長兼務。博士(工学)。著書に、『ディストピア禍の新・幸福論』(2022年)、『ウェルビーイング』(2022年)、『幸せな職場の経営学』(2019年)、『幸せのメカニズム』(2013年)、『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004年)など多数。専門は、システムデザイン・マネジメント学、幸福学、イノベーション教育など。