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脳科学が解き明かす「心の幻想」。感情に振り回されない、ウェルビーイングな人間関係の築き方

前野隆司まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

怒りや不安、嫌悪、苦手意識——。いくら心理学的なテクニックに基づくコミュニケーション術を磨いても、人間には感情があるためストレスは蓄積されていく。しかし、ロボット工学から人間の「心」の研究へと転じた国内における幸福学の第一人者である前野隆司氏は、「心は幻想であり存在しない。だからこそ、心はコントロールできる」と語る。感情に振り回されない、職場における良好な人間関係の築き方を聞いた。

構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人

「心は幻想に過ぎないもの」と知る

——企業のウェルビーイングにおいて、職場の良好な人間関係が大切とされ、その改善のためにコミュニケーション研修やマネジメント研修などが行われます。こうした研修では、心理学的なテクニックを指導されることが多いのですが、良好な人間関係をつくるための本質的なマインドについてはいかがでしょうか。前野先生のお考えをお聞かせください。

前野隆司:人間関係というのは、お互いの好意であれ嫌悪であれ、感情が作用していますよね。例えば、上司の叱責に対して、頭では「正論だ」とわかっていても怒りや悲しみ、不快感が湧いてしまい、それが態度に出て関係性が悪化します。あるいは、失礼な後輩がいたとして、頭では「冷静に改善を促そう」と思っても、イライラとした感情が先立ってしまいます。

こうした怒りの感情をコントロールするテクニックとして、アンガーマネジメントのような手法もあります。しかしわたしは、より根本的な人間の心の事実をみなさんに伝えています。それは、そもそも人間の感情や意識——つまり、「心」は「幻想に過ぎない」ということです。

——「心は幻想に過ぎない」とはどういうことでしょうか?

前野隆司:わたしは現在でこそ幸福学を研究していますが、もともとエンジニアであり、ロボット研究に従事していました。現代のAIもそうですが、ロボットには感情や自由意志はなく、ただプログラムに従って反射行動をするだけです。感情や意識があるように見せかけることはできても、実際には「心」と呼べるものは存在しません。

では、ロボットに人間のような心を持たせるにはどうすればいいのか?心理学や脳科学から人間の心の構造を研究したのですが、人間の「心」もまた、プログラムされた幻想に過ぎないという結論に至ったのです。

わたしが提唱した「受動意識仮説」では、人間は「意識」に基づいて行動を決めているのではなく、無意識下で決定した結果に対して「自分が決めた」と感じているに過ぎないことを科学的に論じています。よって、意識によって生み出される「感情」もまた、後付けに過ぎないのです。

例えば、暴走する車が迫るような死の危険にあるとき、わたしたちは恐怖という感情が湧き、意識によって回避行動を判断したと考えます。しかし実際には、脳のニューラルネットワーク(神経回路網)が車の状況や過去の経験から危険を判断し、無意識に危険回避します。その点では、AIと変わりありません。そのあとで、起こったことをエピソードとして記憶するために「恐怖を感じ自分の意思で回避した」と意識的な行動であるように錯覚しているのです。

このことは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校、神経生理学教室のベンジャミン・リベット教授の実験でも実証されています。人間が指の筋肉を動かす際、脳が「指を動かす」と意識的に考えたときの脳の活動より、脳が運動神経に指令を送る反応のほうが約0.5秒早かったのです。

つまり、人間は意識や感情といった「心」に基づいて行動しているのではありません。ロボット、あるいは虫や動物などと同じように、条件に対して無意識に行動し、その結果について心があるように振る舞っているだけなのです。

——なるほど。ただ、人間がロボットや虫と同じというのは心理的に抵抗を感じますね。

前野隆司:意識や感情こそ人間を人間たらしめると思っていたわたし自身も、受動意識仮説に気づいたときは軽くショックを受けました。わたしのこれまでの意思決定も感情も、脳が無意識に決めたことに、ただストーリー付けをしただけだというのですからね。

しかし、これは約2500年前にブッダが説いた「涅槃寂静」、つまり「悟り」の境地に通じるものだと思うのです。わたしたちの悩み、苦しみなどのストレスは、心や煩悩があるから生じます。それらが幻想だと気づくと、むしろ深い幸せの状態に至るという考え方です。

この気づきを機に、わたしの研究領域もロボット工学から「幸福になるためにはどう生きるべきか」という幸福学に軸足を移すことになっていったわけです。そこで、冒頭の質問であった「良好な人間関係」においても、「幻想である心をどうコントロールするか」という視点に立つことが重要となります。

幻想である「心」の働きに取り合わない

——「心は幻想である」ことを踏まえ、どのようなマインドを持つことで人間関係の悩みを解決できるでしょうか。

前野隆司:「心は幻想である」とは、もっと厳しい言い方をすれば「心は存在しない」といえます。わたしたちは、対人関係において自分の感情や不安に振り回されてしまいますが、そうしたものは「存在しない」と思えば、自分の感情を一旦横に置いて「相手の気持ち」に意識を傾けることができます。

例えば、上司に叱責を受けると、腹が立ったり、悲しくなったりしますよね。さらに「自分だって精一杯やっているのに」と不満を覚えますし、それが続けば「この上司のせいでやる気が出ない」と責任転嫁する発想も出てくるでしょう。そうして上司を、「苦手だ」「嫌いだ」と認識してしまいます。そうなる前に、怒りや不快感を一旦横に置いて、相手の立場に立って考えてみましょう。

上司からすれば、伝え方に問題があるとしても、その指摘や叱責が自分やチームにとって必要だからいっているのです。例えば、「あなたが仕事を適切にやってくれないと、自分のフォローの手間が増える」といった事情です。

同様に、あなたに対して嫉妬から嫌味をぶつけてくる同僚には「比較されて自分の立場が悪くなる」、威張り散らしてくる先輩には「自分に自信がなくてプライドを保とうとしている」など、行動の背景にはなんらかの理由があります。

それは、いわば相手(上司・同僚・先輩)にとって、あなたが「嫌な人」になっていることが原因です。誰も「嫌な人」になりたくて不快な行動を取っているわけではなく、解決したい問題があり、その原因があなただから伝えているわけです。

——確かに、理不尽なことに対する怒りや不快感を一旦忘れて、相手の感情や行動の理由に着目できると、共感できずとも納得ができますし、必要な対処も見えてきますね。

前野隆司:そうです。しかし、上司の指摘や改善命令には応える必要があるものの、同僚の嫉妬や先輩のマウントは、別に対応する必要はありませんよね。彼ら彼女らは、「嫌な人(=あなた)」に対する無意識の防衛反応を起こしただけで、そこに介在する意識や、怒りや嫉妬、嫌悪の感情もまた後付けの幻想に過ぎません。

そこで大切なのは、自分の負の感情を真に受けて「相手を嫌わない」ことです。相手は幻想の感情に振り回されているに過ぎないし、それによって起こる自分の感情もまた幻想です。「まあ、この人なりの理由があるのだろうな」と思って感情を波立てず、フラットな気持ちでいればいいのです。

あなたが相手を嫌わなければ、相手もあなたに対して負の感情を抱き続けることは困難ですから、いずれ穏やかな関係に落ち着くこともあります。なにより、あなたの反応を周囲の人たちが見ていますから、穏やかに受け止めるあなたの様子に心理的安全性を感じ、接しやすさを覚えるはずです。

ウェルビーイングな「心」を意識的につくる

——「心は存在しない」というとネガティブな印象を受けますが、精神的にいい状態を保つことにつながるのですね。これは、「身体的・精神的・社会的に良好な状態にあること」を指すウェルビーイングにも通ずるものといえるでしょうか。

前野隆司:その通りです。さらに精神的に良好な状態であるためには、ネガティブな感情を幻想として切り離すだけでなく、ポジティブな幻想に塗り替えるアプローチも考えられます。

例えば、わたしは大学教授として多くの学生と接しますが、社会人のように自分の考えを明快・端的に伝えられる人ばかりではありません。

以前のわたしは怒りっぽいところがあり、上手く意見をいえない学生に対して「なにがいいたいの?はっきりいってください」と詰めてしまうことがありました。また、自分の求めていない回答や、理解できない考え方に対しても厳しい物言いをしていたと思います。つまり、「怖い先生」だったのです(笑)。

しかし、怒りの感情も幻想に過ぎないのなら、いっそのこと学生たちを積極的に「好きだ」と思い込むようにしたのです。すると、学生の意見に耳を傾け、「なるほど、そういう考え方もあるね」と一定理解を示す物言いができるようになったのです。

——学生にとって心理的安全性の高い先生になれたのですね。どのような心理的なプロセスなのでしょうか。

前野隆司:初めの頃は、イラっとする感情を自覚したら「いかんいかん!」と嫌悪感を否定して、「わたしは彼・彼女のことが好きなんだ」と自己暗示をかけるようにしていました。

そうして無理やりにでも好意を持つと、相手に対する好奇心が湧いてくるのです。好奇心が湧けば、発言が聞き苦しくても話を遮ることなく、建設的に話を汲み取ろうとしますよね。その姿勢があれば、表現力に自信のない学生たちだって、安心して意見を伝えられます。

また、参考にならない意見や誤った意見、あるいは自分に理解できない考え方を伝えられたときも、「どうしてそう思ったの?」と学生の考え方に関心の軸足を移せます。拒絶や否定されず肯定的に受け止めてもらえるので、やはり学生たちの意見は闊達になります。

自己暗示を繰り返すうち次第にマインドとして定着し、学生に対しても、同僚の先生方に対してもネガティブな感情を抱かないようになっていきました。それにつれて、周囲の印象や関係性がよくなっていったことを実感しています。

——まさに、企業におけるベテランのマネジメント職と、若手社員との関係構築にもあてはまるお話ですね。

前野隆司:若手の物言いや、新しい考え方に対して否定的になってしまうと、相手も心理的安全性を感じられず関係性は悪化します。あなたは「おかしい」と思ったから否定しただけでも、そこに「嫌いだ」「嫌われている」といった感情や不安のストーリーが互いに構築され、ウェルビーイングな関係性は遠のいてしまいます。

ですから、「好きになろう」とすることが大事なのです。不思議なことに、そう思うと本当に好きになってきて、相手のいいところに気づきやすくなったり、「サポートしてあげたい」と思うようになったりするものです。

最後に、ひとことお伝えします。わたしは「心は存在しない」といいました。しかし、それでは信頼も、愛も、友情もない無味乾燥とした世界を人間は生きているかといえば、そうではないことをみなさんも知っていますよね。「心」は脳科学的には存在しなくとも、人間の意識のなかで「存在するもの」です。ポジティブで有益な「心」を意識的につくることで、周囲との関係性は改善できるのです。

前野隆司 まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

1984年東京工業大学(現東京科学大学)卒業、1986年同大学修士課程修了。キヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て現在慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。武蔵野大学ウェルビーイング学部長兼務。博士(工学)。著書に、『ディストピア禍の新・幸福論』(2022年)、『ウェルビーイング』(2022年)、『幸せな職場の経営学』(2019年)、『幸せのメカニズム』(2013年)、『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004年)など多数。専門は、システムデザイン・マネジメント学、幸福学、イノベーション教育など。

前野隆司
前野隆司 まえの・たかし
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 教授/
武蔵野大学ウェルビーイング学部 学部長・教授

1984年東京工業大学(現東京科学大学)卒業、1986年同大学修士課程修了。キヤノン株式会社、カリフォルニア大学バークレー校訪問研究員、ハーバード大学訪問教授等を経て現在慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。武蔵野大学ウェルビーイング学部長兼務。博士(工学)。著書に、『ディストピア禍の新・幸福論』(2022年)、『ウェルビーイング』(2022年)、『幸せな職場の経営学』(2019年)、『幸せのメカニズム』(2013年)、『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004年)など多数。専門は、システムデザイン・マネジメント学、幸福学、イノベーション教育など。