人的資本経営は「普通預金型」から「アセットマネジメント型」に進化させよ
2023年3月期決算より、上場企業には有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化された。これに伴い、上場企業を中心に人的資本経営への取り組みが進展し、中小企業においても人的資本投資への関心が高まっている。しかし、その取り組みには大きな差がある。経営戦略と紐づけて人的資本を強化し、ブランディングを図る企業がある一方、表面的な取り組みになってしまう企業も存在する。そこで、人事戦略コンサルタントの松本利明氏に、人的資本経営への取り組み方について、前後編に分けて話を聞いた。
構成/岩川悟 取材・文/吉田大悟 写真/石塚雅人
人的資本経営が求められる社会的背景
——人的資本経営とは、「人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値の向上につなげる経営のあり方」であると定義されています。いま、人的資本経営が注目される理由と背景についてお聞かせください。
松本利明:経営資源の三要素は、「ヒト・モノ・カネ」といわれますが、かつての企業経営では、工場や設備などの有形資産(モノ)が収益の主な源泉でした。しかし現代では、人材(ヒト)の知識や創造性から生まれる価値が収益の大部分を占めるようになっています。これはアメリカのデータですが、2020年のS&P500(米国の主要500企業)の企業価値の約90%は特許、商標、知的財産などの無形資産といわれています。この無形資産を生み出すのは、設備ではなく人的資本(ヒト)です。
人的資本をなにより重要とするのは、新しいWEBサービスを開発して収益をあげるIT企業などが最たる例でしょう。しかし、製造業や小売業も、すでに「必要なものを生産して売ればいい」という大量消費社会の単純なビジネスは通用しなくなっていますよね? 「必要なもの」は飽和していますから、社会が求める新しい商品やサービス、売り方で、これまでにない価値を生み出す必要があるのです。だから、あらゆる業界でイノベーションを生み出す「ヒト」の価値が高まっています。。
また、そうした人材の育成や獲得が企業の持続的な成長に不可欠であることから、株式投資家が投資判断する際にも、人的資本が着目されるようになりました。企業が決算で公表する財務諸表には有形資産しか記載されないため、無形資産の源である人的資本を開示することがアメリカからスタートしたのです。日本でも、2023年3月期決算より金融庁や政府によって上場企業の人的資本の開示が義務化されたことで、人的資本経営への注目が高まっているというわけです。
なお、2018年より国際標準化機構(ISO)が人的資本情報開示のガイドラインとして「ISO30414」を発表しており、いずれ「ISO9001(品質マネジメントシステム)」や「ISO14001(環境マネジメントシステム)」のように、人材マネジメントシステムの公的な認証制度に発展する可能性もあります。
——ISO認証ともなれば、上場企業に限らずあらゆる企業にとって、人的資本への建設的な取り組みが社会的信頼を得るために欠かせないものとなり得るでしょうか?
松本利明:そこまではなんとも言い難いのですが、人的資本経営そのものは、すでに非上場企業、中小企業にとって不可欠な取り組みといっていいでしょう。2020年に経済産業省が発表した「人材版伊藤レポート」によれば、人的資本経営の実現において、以下の3つの視点と5つの要素を重要ポイントとしています。
これらの取り組みを実現することが、事業の生産性を高め、採用力とエンゲージメントを向上させて人材基盤を強化し、企業価値の向上につながっていくことはいうまでもありません。むしろ、優秀な人材や育て上げた人材を大企業に取られかねない中小企業こそ、中長期的な成長と生き残りのために欠かせない取り組みといえるのではないでしょうか。
企業の人的資本経営における課題点
——中長期的な成長に欠かせない人的資本経営ですが、上場企業でも取り組みが進まず形骸化しているケースもあると聞きます。企業の取り組みの問題点や課題について、松本さんはどのように感じていますか?
松本利明:上場企業では有価証券報告書への人的資本情報の開示が義務化され、多くの企業で人的資本経営を推進する動きが見られるものの、上場企業においてさえ、その実態は安易なKPIの設定に終始しているケースがあります。
「人材版伊藤レポート」においても、人的資本経営は「経営戦略と連動した人材戦略」を重要な視点としています。しかし、戦略性なく「エンゲージメントの改善」や「教育・研修の強化」など、それらしい項目を打ち立てているだけで、失礼ながら……ただ社会の要求に対して最低限の課題を義務的に取り組んでいるように見えてしまいます。
——人的資本経営の目的である、「中長期的な企業価値の向上」につながらない取り組みになっているということでしょうか。
松本利明:もちろん、無意味ではありませんが、少なくとも経営戦略との連動はあまり見えません。そうした取り組みに終始する原因は、ふたつあると見ています。ひとつは、経営者や人事に「人に投資をしてリターンを得る」という意識が希薄なこと、もうひとつは、「人的投資のPDCAサイクルが回せない」ことが挙げられます。
——「人に投資をしてリターンを得る」という意識が希薄である原因は、どこにあるのでしょうか?
松本利明:日本企業は大企業を中心に、新卒採用・年功序列が人事の勝ち手だった時代が長く続き過ぎたことに起因します。従業員は終身雇用を前提に入社から定年まで、ひとつの会社に勤め上げることが原則であり、「家族」のように人生をともに過ごす仲間として、みんなで頑張ることが人材マネジメントの基本でした。
そう聞くと穏やかな風土のようですが、キャリアパスは残酷です。将来の経営幹部候補は、同期のなかで相対評価が高く「上司の覚え」がいい人を中心に選び、そのキャリアが傷つかないよう経営や人事が配慮しながら、「あの人は凄い」という認知を社内に広げ、要職に配置します。
一方、それ以外の人たちは、40代以降の転職や潰しが効かなくなる年齢まで出世の可能性をハッキリさせず、ワークモチベーションを下げずに頑張らせるのです。出世できないからといって転職されるくらいなら、飼い殺すということです。そのうえで、ルールに沿って「玉突き人事」を繰り返すことが基本ラインでした。そこに戦略的に人に投資して育成し、リターンを得るという発想はなく、ただのスゴロクに過ぎません。
冒頭に述べたように、かつては工場や設備などの有形資産(モノ)が収益の主な源泉であり、ヒトは「金太郎飴」、「歯車」と表現されるくらい、同じような人材を大量生産していけばビジネスが太くなるため、それが人事戦略の要であり勝ち筋だったのです。
残念ながら、いまの経営幹部層である40~50代は、まだ、この流れに沿って出世してきた経験しかないので、「人に投資してリターンを得る」という本質が体感的にわからないのが実態です。
実際、世の流れに沿って「ジョブ型」の人事制度に変更しても、新卒採用中心で年次管理(入社年で序列を決め、年次を評価や処遇のベースと置くこと)のままである企業がほとんどで、理想と現実の狭間で苦しんでいます。過去のレガシーという名の呪縛を取り払った成功体験がないので、根本的な変革に踏み込めないのです。
——さらに、もうひとつの原因は、人材育成や人材マネジメント上の施策において「PDCAサイクルが回せない」こととされますが、こちらはいかがでしょうか?
松本利明:人の成長には年月がかかりますよね。人事評価の実施も半年または年に1回しかなく、人的投資の効果測定を行うために必要なデータが揃うまで何年もかかってしまうのです。
そのため、PDCAサイクルが機能しにくく、人材マネジメント上の施策が場当たり的になりやすいということです。設備投資であれば短期的に投資リターンを得やすいのですが、教育であれ待遇改善であれ、人的投資のリターンは中長期的に実感できるものです。しかし、その頃には時代が移り変わって、人材に関する別のムーブメントが起こってしまい、その対応で既存の施策が形骸化するか、フェードアウトし、「気づいたらさりげなく終わっていた」ことになる傾向があります。
ここ10年の流れを例にすると、2010年代後半から残業抑制と生産性向上、女性活躍推進の取り組みがあり、その検証やPDCAサイクルを回すより先に、今度はDXのためのデジタル人材の育成、働き方改革の推進、健康経営の推進などに取り組む必要が生じ、現在はそれらをまとめて人的資本経営として開示していますよね。ひとつの人的投資が成果を出す前に次のムーブメントが次々にやってきたことを、人事・総務の方は経験したのではないでしょうか。
これらのムーブメントの波に対し、経営層が場当たり的に方針や命令を出していては、管掌役員であれ人事部門であれ「またか……。どうせまた方針を変えるのだろう」と思って受け流してしまうのも当然でしょう。研修の実施など、経営層に対してアリバイのような施策を打ち、それなりの成果を報告しようとしてしまい、中長期視点で実効的な施策にはなりません。
施策のPDCAサイクルを回すモチベーションを維持し、投資リターンを回収するためには、経営者が確固たる戦略を立て、継続的に人的資本投資の現状と成果をモニタリングしていくことが必要です。
人的資本投資を「普通貯金」から「アセットマネジメント」に切り替える
——人的資本経営が形骸化する原因はわかりました。では、「経営戦略と連動した人材戦略」がない状態から人的資本経営の改善を図ろうと思った場合、現実的になにを起点に考えていけばいいのでしょうか?
松本利明:やはり、まずは「人に投資してリターンを得る」という感覚を身につけることです。そのためには、根本的な発想やマインドの変革が必要です。人材マネジメントを「普通預金」から「アセットマネジメント」の視点に置き換えて考えればいいでしょう。
いままでの人材マネジメントは、いわば「普通預金」と一緒なのです。人材という資産を一様に「現金」と見なし、資産が増えるのをじっと待っているだけです。普通預金の利息はないに等しく、じっとしてても資産は増えません。社員の数の増加のみが総資産をあげるという残念な運用にしかなりません。
ただ現場のOJTに任せていたり、年齢・社歴で管理職に昇格させたり、全員を対象にモチベーションアップセミナーを行ったりしているだけでは、期待するほど利息は増えません。むしろ、退職(離職・定年等)という引き出しがあれば、利息以上の手数料がかかり、総資産は減るばかりです。
——では、人材マネジメントを「アセットマネジメント」にするとは、具体的にどのようにすればいいのでしょうか?
松本利明:「アセットマネジメント(Asset Management)」とは、資産の価値を増加させる目的で、個人や法人が所有している株式・債券・不動産などの運用資産の管理を行う業務のことですよね。現金を現金のままとせず、さまざまな資産に変え、その資産の特性に合った運用を行なって価値を高めていくのです。
同じように、人材マネジメントも「アセットマネジメント」に見立てて考えてみましょう。例えば、コア事業のエースは「1万円札」の人材ではなく、「駅近のテナントビル」です。新規事業を任せることで、新たな事業の柱を生み出せるポテンシャルを持っているかもしれません。そう考えると、「どのようなスキルや経験を積ませようか」という発想になりますよね。
また、閑職でくすぶっているベテランは「古い千円札」ではなく、有望で地質のいい「空き地」かもしれません。リスキリングによって新たな資産価値を生み出せるでしょう。人材の年次や等級、現在の業績評価にとらわれず、個々の資産の特性から人材区分を考えていくのです。
また、普通貯金では「ただ利息がつくのを待つだけ」ですが、アセットマネジメントでは目標を設定し、達成のための運用を行います。人材育成においても、目標達成のための運用が大切です。
例えば、「管理職の数が足りず、その候補者も足りない」という状況であれば、普通預金的に年次に沿った管理職登用を続けながら、現場任せで「頑張れ!」と叱咤激励するだけでは意味がありませんよね。
アセットマネジメント的な視点でいえば、「●年間で管理職を△名、候補者を×名まで増やす」という目標を設定し、どのような人的投資を行って運用していくかを考えることになります。研修やOJT以外の打ち手のアイデアを出し、どのような人材区分に対して施策やプロジェクトを行い、その優先度や効果測定・進捗を管理する必要が生じます。これがまさに、先の「人的資本経営に求められる5つの要素」で示した「動的人材ポートフォリオ」の本質といえます。
このように、人材マネジメントをアセットマネジメントに見立てることで、普通預金の経験しかなくても、人材投資・リターンの対象や手段、インパクトが可視化されます。この動的人材ポートフォリオをとどう活用し、機能させるかは、まさに「人材戦略」を描くことで実現させることになります。次回は、機能する人材戦略の策定方法の要諦について解説します。